公立高校入試の歴史並び替え問題

年代の数字を覚えることは重要ではありません。できごとの内容と前後の関係を理解しましょう

歴史並び替え問題第148問(2010年岩手県公立高校入試)

問題

次のア~エは「明治時代以降のわが国と中国との関わり」についてまとめたものである。年代の古い順に並べ、記号で答えなさい。

日清戦争後の中国では、日本などの列強が勢力を拡大すると、清をたおして新しい国を作ろうとする運動が起きた。
日本軍は、奉天郊外で鉄道の線路を爆破し、これを機に軍事行動をはじめ、清の最後の皇帝を元首とする国をつくらせた。
日本と中国は、日中共同声明に調印して国交を正常化し、さらに日中平和友好条約を結んだ。
第一次世界大戦中に、日本が中国にドイツの権益の継承を要求すると、中国で強い反発を招いた。

正解

ア→エ→イ→ウ

解説

三民主義を唱え中国革命の父と呼ばれた孫文は、清の打倒を掲げ、1894年(明治27年)にハワイで興中会を結成し、1905年(明治38年)に東京で中国同盟会に発展させました。ただし、中国国民の意志は一つではなく1899年(明治32年)の義和団事件は清を助けようとする運動でした。日露戦争後の1911年(明治44年)に辛亥革命がおこり清が倒れると、孫文は翌年に中華民国の臨時大総統につきました。

中華民国はその後、軍事力をもっていた袁世凱政権に変わり、第一次世界大戦のさなか1915年(大正4年)に日本の21か条の要求を受け入れました。主な内容は日本が中国にドイツの権益の継承を要求したもので、1919年(大正8年)のベルサイユ条約でも認められ、中国ではこれに反発して抗日、反帝国主義の民衆運動である五・四運動が起きました。

日本は1905年(明治38年)のポーツマス条約で南満州の鉄道などの権益を得て、それを守るために関東軍が設置されました。1920年代後半になると中国での抗日、反帝国主義の動きは強まりました。これに対して関東軍は満州での権益の保持と拡大を狙って1931年(昭和6年)満州事変を起こし、翌年に満州国が建国されました。

いったん日中の軍事衝突は収まりましたが、1937年(昭和12年)に全面的な戦争に突入しました。1945年(昭和20年)のポツダム宣言の受諾まで戦争は続き、中華人民共和国の成立もあって、日中の国交正常化は1972年(昭和47年)の日中共同声明まで、長い時間がかかりました。

 

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