問題
次のア~エは、飛鳥時代から室町時代にかけて、新しい知識や技術などを学び取り入れてきた様子について述べたものである。時期の古いものから順に記号を並べよ。
- ア
- 種子島に漂着したポルトガル人から伝えられた鉄砲を基に製造法を研究し、やがて鉄砲を大量に生産できるようになると、戦国大名による合戦の戦術が変化した。
- イ
- 渡来人などを通して学んだ仏教や儒教の考え方を取り入れ、役人の心構えとして制定された十七条の憲法(憲法十七条)は、天皇を中心とする政治を支える役割を果たした。
- ウ
- 唐の進んだ政治制度を手本として、刑罰や政治を行うにあたっての規定などについて定めた大宝律令が制定され、中央集権国家の仕組みが整えられた。
- エ
- 念仏に救いを求める仏教の教えが民衆に広がる中で、座禅によって自力で悟りを開こうとする禅宗が宋から取り入れられ、北条氏の保護を受けて武士を中心に広まった
正解
イ→ウ→エ→ア
解説
ヤマト王権の有力な豪族であった蘇我氏は仏教を積極的に導入し、蘇我馬子は厩戸王(聖徳太子)と共に冠位十二階(603年)や十七条の憲法(604年)を定め、天皇中心の国家を建設しました。
蘇我氏は645年に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)らによって滅ぼされ、律令制国家の建設を目指し大化の改新が始まりました。本格的な律令となる大宝律令は藤原鎌足の子である藤原不比等らによって、701年に完成されました。
平安時代末から鎌倉時代にかけて新しい仏教が興り、臨済宗の開祖である栄西と曹洞宗の開祖である道元は、ともに宋で禅宗を学び、日本に広めました。また栄西は日本にお茶を広めたことでも知られています。
1543年に種子島にポルトガル人が漂着すると、領主であった種子島時堯は鉄砲を手に入れ、家臣にその製造を命じました。その後鉄砲は、堺などで大量に製造されるようになり、合戦や城の形が変わりました。織田信長と徳川家康の連合軍が鉄砲を効果的に使って武田勝頼を破った長篠の戦いは1575年におこりました。